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Patina哲学
【Patina哲学】第六回 モノとの関係性について
Patina哲学 コラム 生活 経年変化

【Patina哲学】第六回 モノとの関係性について

モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ

わたしたちが生きていく上で、モノは必要不可欠だ。それは、生まれたときから存在していれば、そのモノがあって当たり前だから、その生活が続く以上、必要不可欠なのだと信じて疑わない。


しかし、生活が少し変わったら、それは本当に必要なのか、ふと考えてしまうことがある。


たとえば、旅に出るとき。旅に持っていける荷物は限りがある。最低限の荷物にしても、荷物がいっぱいになることがある。一度、旅に出れば、さらに必要かどうかのふるいにかけられるので、その識別の精度は上がる。


引っ越しも、一種のふるい活動だ。思い切って、不要なものを片付けるチャンスだ。

ゴミ予備軍になってゆくモノたち

モノと接していると、常に必要なのかどうかを問う機会に直面する。モノと出会ったとき。モノをもらったとき。モノを購入するとき。モノを捨てるとき。わたしたちは、常にモノとの関係性を定義し続けている。要るのか、要らないのか、ということを。

しかし、それはあくまでもそのときの条件と感情が決めることであって、個人の裁量に委ねられる。その結果、社会には様々なモノが溢れ、それらと築かれた様々な関係性が存在する。要らないモノは、ゴミになる。ゴミになったらたいてい関係性が終了するから、そのあとゴミがどうなるかは、関係性の範囲外だ。

ゴミにしなくても、関係性の範囲外にいってしまったモノは、ゴミ予備軍になる。いつか捨てるけど、まだ捨てていないモノ。そもそもそんなに必要ではないのに、なぜか持っているモノ。

自分の周りにあるモノを冷静に見たときに、ゴミ予備軍でないモノが、いったいどれぐらいあるのだろう。モノとの関係性を築ききれないほどモノを所有すると、いつしか、ゴミ予備軍に囲まれた生活になってゆく。もったいないと言いながら、ただゴミ予備軍を増やしているのかもしれない。

モノとの間にある不確かな関係

そうなっていってしまうのは、そもそも、モノとの関係性がきちんと構築できていないからなのだと思う。知らないところで「需要」が作られて、「需要」として既成事実になってゆくとき、いつ、わたしたちはそれらと関係性を築くのだろうか。「需要」が作られるときだろうか。需要」がスタンダードになるときだろうか。


携帯電話やスマートフォンができたとき、選択肢の中の一つとして、それが魅力的になり、選んで使い続けている。しかし、そのモノ自体が欲しくて探し当てたのではない。そのモノがどうしてもないと生きていけないから、手にしたわけでもない。


ただ、何となく選択したのだ。そしてそれがいつの間にかなくてはならないモノになった。自分がそうしたのか、周りがそうしたのか、はっきりしない。


未来は、そのふんわりとした関係を前提に語られて、だんだんそうなってゆく。わたしたちと、モノの間にある関係性をあいまいにしたまま。

価値基準とゴミの行方

一つ一つのモノがつくられる工程と、かかる時間はモノによって多様だ。基本的に工程が多く、人手を介して、汎用性がなく、完成するまでに時間がかかるモノは、価値が高く、その分購入するのにお金が必要だ。


だから、モノを所有するときの一番の基準はお金だ。お金がないとモノが買えない。


しかし、基準はお金だけではない。そのモノに対していくらお金をかけられるのか、という価値基準もある。


Patina(パティーナ)は、価値基準の一つだ。その狭義の意味は、つくりたての銅像が雨や風の侵食を受けて、色が変化して初めて銅像としての風合を備えてゆく、その色のことを指す。それが転じて、味わいを指すようになった。日本語で「わび」と訳されることもある。


古くなってゆくことに価値基準が置かれ、価値が上がる。そういうモノは、ゴミ予備軍に入ることはない。最初から、経年変化を設計にいれて、長い時間使用されることを前提につくられている。わたしとそのモノは、出会ったときから、暮らす時間を共有し、ともに生きる。その濃い関係性の中にあって、それらが関係性をはみ出すことはないので、不慮の事故で失わない限り、関係性は続く。だから、ゴミ予備軍になることはない。


使い捨てるものは、身の回りにたくさんある。衛生的になればなるほど、使い捨てが増える。いつからそんなに潔癖になったのかは分からないが、見えないウイルスを嫌い、徹底的に防御しようとする。衛生をまもるために、使い捨てられたモノたちは、ゴミ箱に入って蓋を閉められたら、あとはどうなるのか知らないし、気にも留めない。ゴミ箱は、終着点なのだ。


ゴミ箱のデザインは、たいてい中が見えないように、蓋ができるようになっている。ゴミは不浄で汚れたモノだから、臭いものには蓋をするように、いつも見えないところに追いやられて、どこかで粛々と処理されているか、さらに見えないところへ埋められてゆく。


土に還れるものは、埋められても、いつか地球と同化してゆく。しかし、同化できないモノはどこかにはみ出して、漂流する。それらのモノは、最初から使う人との間に、関係性が築かれなかったから、ゴミとなって終着点にたどりついても、浮き続けるのだろう。

断捨離することの意味

断捨離するといって、自分にとって不要なものを見つめ、執着を捨てる。しかし、それはゴミかゴミ予備軍を捨てただけであって、そのときに自分との関係性がはみだした一部の何かだけなのかもしれない。

捨てる時ではなく、モノを手にする時。もしくはモノを生み出す時、生み出そうとする時。使う人とモノとの関係性をもっと考えるべきなのだと思う。断捨離する前に。

いまの世の中では、断捨離するほうが簡単だ。とりあえず捨てれば、一応断捨離したことになる。しかし、それは本当の意味では捨てられていないのかもしれない。一方的な関係を一方的に切っただけなのかもしれない。

それが、長い間使われるように、そのモノのいのちが終わるときは、循環されるように、最初から経年変化を前提に、Patina(パティーナ)であるものが、たくさんの人に使われるようになれば、ゴミ予備軍に囲まれることも、断捨離する必要性もなくなるのではないかと思う。

今はすでに、モノを大量生産、消費、廃棄する時代から、モノとの関係性から考えて、モノとともに生きる時代であり、循環させ、持続可能なあり方を構築していく時代になっているのだ。

未来は語られて、つくられてゆく。断捨離ではなく、Patina(パティーナ)を語るべきなのだと思う。

Patina哲学第六回 版画タイトル:並列する不揃いのモノ

コラム製作 まっちゃん

広島県出身。大学卒業後、興味のあった中国へ語学留学し、そのまま4年間暮らし、改めて日本食のおいしさと日本文化の優しさを実感。帰国後すぐに上京し東京で13年間働く。結婚後長野県東御市に移住。宗教・歴史に興味があり、長野県移住後は諏訪地域の神仏習合や縄文遺跡にはまって散策しています。普段は玄米食で、一汁三菜の常備菜を食べ、早寝早起きの健康ライフを送っています。
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