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Patina哲学
【Patina哲学】第十回 新生活の不安
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【Patina哲学】第十回 新生活の不安

モノ・コト・ヒトの経年変化を味わい楽しむブログ

新社会人や新生活という考え

4月に入って、きれいなリクルートスーツに身を包んだ若者をよく見かけるようになった。スーツも、靴も、鞄も、髪の毛の雰囲気も全部新しくてきれいた。彼らはきっと新社会人に違いない。知合いではないが、彼らの雰囲気が、新社会人であることを体現している。

この時期は新学期や新生活が始まるので、「新生活」と総称されることが多い。新生活という言葉には、キラキラしたものが含まれているような気がする。だからかこの時期、インターネットやショッピングセンターでは新生活応援キャンペーンみたいなものをよく目にする。

周りの浮ついた雰囲気と対比を成すように、わたしは、新生活という始まりの時間が好きではない。新生活は不安だ。知らない人とうまくやっていけるだろうか。知らない環境で何かあったらどうしよう。分からない勉強や仕事についていけるのだろうか。仮に自分が努力して獲得した、新生活の場でさえ、誰しも一抹の不安は持つものだ。

新生活という言葉は、押し付けがましいと思う。わたし自身は、別に新しくはならないのに、少し別のところで違うことをするだけなのに、新生活になる。生活が少し違う角度になっただけなのに、周りの空気と、新しいものと人に囲まれて、自分がさも新しくなった気分になる。自分はいつの間に新しくなったのだろう?自分さえ気にしなければ、周りの人はそれに気づかない。周りの人は、自分と出会うのが初めてだから、それ以前を知らない。それは、ほんとうに新しい自分なのだろうか?

不慣れな自分と惨めな自分と新しい自分

新生活はだいたいにおいて、想像より惨めだ。人に慣れない、仕事に慣れない、勉強に慣れない、環境に慣れない。不慣れなことをしているわたしと、慣れていることをするわたしは、同じ人間だが、違う人のように感じる。不慣れなことをするわたしは、気づきが浅かったり、失敗をしたり、空気が読めなかったり、ものを無くしたり、いろいろやらかしてしまう。

新しいことをやる度に、この不慣れな自分が出現する。不慣れな自分を何人も経ると、不慣れな自分に慣れるという不思議な現象が起きる。この段階で出会う自分は、もしかしたらいままでにない、新しい自分かもしれない。新生活がスタートしたときは、自分は古いままだが、不慣れな新しいことの様々な洗礼が、自分を清めてゆく。

知らないことに身を置くのは、良いことだと思う。不必要に身につけた小さなイガイガのようなプライドが、パラパラ落ちてゆく。それこそ、不慣れな自分を通り過ぎる度に。

慣れることと、慣れないこと

本当の新しい自分はその後にやってくるのだ。慣れた自分に成れたとき。しかし、慣れた自分になったとたん、新生活が色褪せる。慣れた自分になったときこそ、新しい自分との出会いなのに、慣れていない期間こそ新しい時間と思い込み、慣れてきた時間はだんだん退屈に感じられるようになり、じきに飽きる。

慣れとは、空気みたいなものだ。最初は当たり前でなかった、様々なことが、時間を経るごとに当たり前になってゆく。空気は見えない。すなわち、慣れも、慣れそのものは見えない。慣れた、と思うのは、感覚的な問題で、自分で勝手に慣れたかどうか決めつけてしまうことがある。人によっては、一ヶ月で慣れたと感じることもあるだろう。また人によっては、三年たってもまだ慣れないと感じることもあるかもしれない。

このスピードは人格や能力に起因するものではないと思う。優れているからすぐ慣れるのではなく、鈍感で簡単に決めつけて、あらゆることを丸呑みにできて、丸呑みにされることに抗わないとき、すぐ慣れることができるだろう。繊細で、咀嚼しないと飲み込めなくて、いつも周りの空気が固まりのように見えてしまう場合、いつまでたっても慣れることはできないのだ。

慣れることは、人生を円滑にする。でも、慣れてしまったら、人生は滑るように流れていき、時は滑るように手から溢れ落ち、何かを掴もうにも、掴む対象を見つけられない。そもそも、何かを掴もうとしようとする前に、すでに滑り落ちている。

新生活の気持ち。不安な気持ちと不慣れな自分。自信がなくて周りにびくつく自分であるときは、掴んで離さないから、滑り落ちないが、どこにも行けない。

新しい瞬間とPatina(パティーナ)

新生活という言葉が胡散臭いのは、新生活が表現している時間が、慣れるまでの経過の時間の表現で、慣れることがゴールで、慣れたら新生活は終了するかのような表現を含んでいるからだ。

新しいことを始める気持ちは、いつでもどこでも存在する。一日はいつも新しい。一瞬はいつも連続しない。慣れることと、新しいことには因果関係はないと思うのだ。新しいことを始めて、慣れていくのではなく、毎日、毎一歩が新しいのだ。慣れた目でみれば変わりばえのない毎日かもしれないけれど、世界は刻一刻と変わっている。慣れる暇なんてないぐらい、いろんなものが生まれて死んでゆく。

慣れなくて当然で、毎日新しくて当たり前なのだ。経年変化、それ自身の時間の流れが、波打っているように、豊かで変化に富んでいる。そのことに気づけば、毎一瞬が味わいになる。その味わいがPatina(パティーナ)なのだと思う。

あなたの新生活が、毎日のものになりますように。

Patina哲学第十回版画タイトル:いろんな手

Patina哲学第十回版画タイトル:いろんな手

コラム製作 まっちゃん

広島県出身。大学卒業後、興味のあった中国へ語学留学し、そのまま4年間暮らし、改めて日本食のおいしさと日本文化の優しさを実感。帰国後すぐに上京し東京で13年間働く。結婚後長野県東御市に移住。宗教・歴史に興味があり、長野県移住後は諏訪地域の神仏習合や縄文遺跡にはまって散策しています。普段は玄米食で、一汁三菜の常備菜を食べ、早寝早起きの健康ライフを送っています。
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